大人のひたむきさ(2012.12.21)
高校生くらいの頃は、大人は汚い、とか、大人には夢がない、とか、大人はつまらない、などと思っていました。
二十歳の頃は、30歳は「おっさん」と思っていました。
30歳になると、40歳は「あがり」と思っていました。
40歳になると、50歳は「老害」と思っていました。
そして今、50歳。
10年前に考えていた「老害」の歳です。けれどいつも年を重ねて思うのは、見てくれはもちろん変わってきていますが、思考や精神は、正直に言って、高校生や二十歳の頃の考え方から、あまり進歩していないように感じること。
それでも自分で「少しは大人になったかなあ」と思うのは、60歳や70歳など、自分よりも上の人たち、自分よりも若い人たち、双方の感覚が、「何となく」分かった気がし始めたから。
僕の中の大人になるということは、過ぎてきた年代を知り、自分よりも上の人たちから見られた時の未熟さを知り、これから行く歳が少しだけリアリティを持って想像できるようになるということ。
これに対して子どもというのは、重ねてきた年齢の未熟さにまだ気づくことができず、足らずに気づかず、認めてほしいとただ要求をする人。
だから、大人というのは、「自分は子どもである」と認識できた時に始まるものなのかもしれません。
未熟さに気づく。足らずに気づく。
気づけない人は、いつまでも子どものままでしかいられない。子どもは、ただねだるだけだから、欲しいモノにはいつまでたっても自分では手が届かない。
あの頃はわからなかったけれど、大人というのは、決してならない方がいいものではなく、依怙地さをすてた心地よさを感じられるようになるステージだと思います。そして若さだけではどうにもならなかったことが何とかできるようになる。思える。
肉体の自由度は、悲しいかな落ちてきますが、気持ちの自由度は、昔よりも大きくなっている。そんな風に感じます。
そうは言っても、10代や二十歳やではわからないと思いますが、あの頃にそれを少しでも知っていたら、今よりももっとずっと自由に慣れていたかもしれない。そう思います。
怖いものを想像できないところからくる子どもの向こう見ずも、悪くはないけれど、大人のひたむきさの方が、何だか純真に思える今日この頃。
それは僕がそういう歳になったための自己擁護なのかもしれませんが。。