頑固おやじで何が悪い!?

思ったことを思ったとおりに書いています。ただし、発言には責任を持っています。ここで書いているのは僕の意見なので、異見をいただくことはかまいませんが、ここで議論をするつもりはありません。自分の軸や方向性を見失わない場として書いています。

老害は嫌だなあ(2012.12.08)

好奇心と探究心というのは、人間の発展の源だと思っています。
なので、それを持たない人は成長が難しいという話も、以前何度か書いてきました。
この好奇心というものは、年齢を重ねると共に変化していくものだと思っています。


4つの段階で考えてみました。


「好奇心の幼児期」
これは、広く興味を持って、深く掘り下げない好奇心。
「なんで、なんで?」と根ほり葉ほり聴くものの、実はそれはその原因に興味があるのではなく、提示された答えに興味が移っているだけなのではないかと思います。
興味が拡散しやすく、定着しにくい状態。認知の段階とでいえばいいでしょうか?


「好奇心の青年期」
自分の興味範囲がある程度限定され、対象を深く知ろうとする。ただし、その周辺についてもアンテナを持ち、関連のありそうなものには躊躇なく興味を持って、掘り下げる。
認知から知識へと育つ段階。断片が有機的つながり、いろいろな尺度で物がみられるようになる。


「好奇心の壮年期」
自分の興味の部分を掘り下げることが楽しい。関連する部分にも興味を持つが、余程の関連性を感じない限り掘り下げることはしない。掘り下げた対象の回りで人脈がつながっていく段階。


「好奇心の晩年」
そして最後は、周りに対しての興味が無くなるだけでなく、自らの興味分野に対しても、新しい知識を吸収しない。蓄積に安住し、自分の蓄積に反するものは拒否、または排除しようとする。


僕のイメージはこんな感じです。


今の日本を見ていると、大人も子供も関係なく、幼児期のまま成長しない人、幼児期から、青年期や壮年期を飛び越して晩年に来ている人が多いように思います。

幼児期は単なるわがままで他力、晩年は老害とも呼ばれるものと考えれば、社会が停滞するのもうなずけます。


僕はといえば、昔から、いろいろなものに興味を持つタイプでしたが、最近は興味のあるモノ、ないモノの区別が極端になってきたように思います。


老害の入口、もしくはすでに老害かも知れないと思う今日この頃。。