「形式知」に気をつけよう〜その1〜(2012.09.15)
暗黙知は形式知化することだと盲目的に信じる人が多いですが、以前(http://d.hatena.ne.jp/Jintaro/20090419/1240117735)書いたように、僕は、暗黙知のままでおいておいた方が良いものはたくさんあると思っています。
そもそも暗黙知を形式知化するといっても、暗黙知のすべてを形式知化できていることなんてほとんどありません。
暗黙知からたくさんの“行間”を削り、万人に理解されやすいレベルに“落として”まとめられたものが形式知だからです。もし、暗黙知を完全に形式知化できたと信じている人がいるとしたら、それは単なる勘違いです。
暗黙知を他人に伝えることは、難しいことです。
暗黙知を伝えたいと願う人と、暗黙知を理解したいと願う人の双方があって、初めて暗黙知は伝える機会ができるもの。そこから、長い時間をかけて伝承していくもの。いわゆる口伝や相伝の類です。
ですから、暗黙知を会得するのには長い時間が必要となることが多く、場合によっては何十年もかかるものもある。
これに対し、行間が削られ、形式知化されたものであれば、一定レベルまでは楽に習得することができます。
けれど、形式知で忘れてはならないことは、形式知は暗黙知のすべてを可視化しているものではなく、場合によっては、暗黙知の価値が貶められ、あるいは誤解され、異形のものとなって広まってしまうことです。
暗黙知を暗黙知として自分の物にする人と、形式知化されたものを利用する人には、大きな違いが出てきます。それは、前者には進化が期待できるけれど、後者には変化しか期待できないということです。
前者は、暗黙知の根本を理解しているので、その根本を外さずに、より良いものにしていくことができるようになります。根本を忘れずに、そこからより良い形に変えていく。これが進化です。
これに対し後者は、余程の天才でもない限り、形式知の元となった暗黙知の根本など理解できることはまずないので、表層に見えているものを単に変えていこうとする。根本を逸脱し、目指すものとは違う形にしてしまうということなので、進化ではありません。往々にして非なるものに変化させることによって、暗黙知を消し去ってしまうことが多い。そう思います。
だからといって、形式知化がすべて無駄だというつもりはありません。形式知化には注意が必要だということです。
何でもかんでも形式知化すればいいというものではない。暗黙知のどの部分を形式知化するのか?ということです。
長くなってしまいましたので、続きはあらためて。