頑固おやじで何が悪い!?

思ったことを思ったとおりに書いています。ただし、発言には責任を持っています。ここで書いているのは僕の意見なので、異見をいただくことはかまいませんが、ここで議論をするつもりはありません。自分の軸や方向性を見失わない場として書いています。

「常識」には折り合いが大事 2017.08.17

常識は、その人が属している社会で変わる。
その社会における最大公約数が、その社会の常識になる。
だから、属している社会が狭ければ狭いほど、最大公約数は、特殊なもの、あるいは、外では通用しないものになる。

子供の常識が大人の社会に通用しないのは、大人の社会に対比べて、極めて狭い範囲のものだからだ。

だからといって、広い常識にただ従えばいいということではない。

常識は、過去の経験から構築される。
それはつまり、古い知見に基づくものが多くなるということ。
だから、新しい考えを受容しづらく、新しい知見はしばしば、過去の常識(=世間の常識)とぶつかることになる。

けれど、そこでどんなに戦っても、勝ち目はまずない。
なぜなら、世間の常識には基礎となる確固たる経験があり、それに対して新しい常識としたいものには、それを崩し去るだけの根拠を持つことは難しいからだ。

お互いの土俵が違うところで戦ってみても、何も生まないし、何も解決しない。
つまり、お互いに異なる経験に基づく常識をぶつけ合うことは、時間の無駄でしかない。

やることは、3つの選択肢から何を選ぶかだ。

ひとつは、ただ受け入れて、従うこと。
二つ目は、自分の考える常識を忘れずに、自分達よりも若い人たちから同じ考えが出てきたら、それを受け入れる準備をしておくこと。
もうひとつは、議論などせずに、それをやり、結果を見せること。

どれが正解かは、時代が過ぎてみなければわからない。
けれど、唯一間違いだと言えるのは、自分の常識で相手を打ちのめそうとすることだ。

常識は、よくも悪くも社会の潤滑油だ。だから、それをなくせば摩擦が生じる。
異物もまた、摩擦のもとになる。
もちろん、摩擦が何かを産み出すこともある。ただそのためには、摩擦を許容するだけの遊びが必要だ。

常識のぶつかり合いは、相手に自分を認めさせることではなく、相手を否定することから始まりやすい。
だから何も生まないものになる。

常識を比べるのはいい。
けれど、否定のためのそれは、互いの無駄にしかなり得ない。
常識はぶつけて削るのではなく、相手のそれを置き換えるのでもなく、広げてゆくものだ。
そのために大切なことは、折り合いをつけること。
それが、常識を広げて行くコツだ。